日本のお菓子の歴史 2 奈良から室町時代 饅頭の始まり

奈良時代 唐菓子が伝わる

奈良時代(710~794頃)になると唐から遣唐使により8種の唐菓子(からくだもの)と14種の果餅(かへい)が、その製法とともに伝わりました。

唐菓子とは、米粉、小麦粉などを、色々な形に作り、水あめ、蜜、あまずらなどの甘味や塩味をつけ、また油で揚げたりしたものです。この頃から日本でも工夫して独自の菓子が作られるようになりました。

砂糖は超貴重品

砂糖は、奈良時代-754年唐僧 鑑真(がんじん)が入国のおり、天皇への献上品として黒砂糖を持参したそうです。

菓子の発展に大いに役立ったのが、お茶の伝来と普及があげられます。お茶が伝来したのは、奈良時代(聖武天皇の頃、729年)遣唐使により伝わり、宮中で引茶の会が催されたとあります。

平安時代は、 記録としては、あまり残っていませんが、奈良時代と同じように唐菓子や果物が食後に食べられていたようです。

鎌倉時代 お茶の栽培が始まる

本格的に茶を栽培し普及に力を注いだのは、1191年(鎌倉時代)栄西上人(えいさいしょうにん)が宋から茶苗を持ち帰えったことに始まります。

茶を楽しむ茶道が始まり、この茶道の隆盛とあいまって、点心としてのお菓子が広まりました。 点心は、禅家(ぜんけ)で勤行(ごんぎょう)の際に食間の空腹を補うためにとる食物や菓子のことを指し、鎌倉・室町時代に中国から渡来しました。当時の点心は、あつもの類(吸い物)、めん類、などが中心でした。

饅頭の始まり

諸説ありますが、有名なのは次の二つの説です。鎌倉時代、仁治2年(1241年)、宋から帰国した臨済宗東福寺を開いた禅僧、聖一国師弁円(しょういつこくしべんえん)【円爾弁円えんじんべんえん】が、博多の茶店の主人である栗波吉右衛門に、小麦粉をこねて甘酒をいれて発酵させて饅頭をつくる製法を教えたとのことです。現在の酒饅頭です。茶店の屋号の虎屋から「虎屋饅頭」として売り出しました。これが、饅頭の起源の一つと言われています。 弁円が、書いて与えた「御饅頭所」の看板がが、今の虎屋に残されています。ただし、博多の虎屋との関係は、不明だそうです・

もう一つのまんじゅう起源として一般的に言われているのが室町時代(1341年)に中国から渡来した林浄因(りんじょういん)が中国のまんとうを元に小豆を煮詰めた餡を作り僧侶に売ったのがはじまりとの説です。その流れを組むのが、東京の塩瀬総本家になります。現在でも奈良市にある林神社で毎年4月19日に饅頭祭りが催されています。

南蛮菓子の伝来

室町時代(1543年)ポルトガル船が種子島に漂着したのを始まりに、鉄砲 、キリスト教の伝来などともにカステラ、ビスカウト(ビスケット)、ボーロ、コンフェト(金平糖)、アルヘイト(有平糖)などのお菓子が伝来しました。

これらのお菓子は、原料や製法などの点で日本のお菓子に大きな変革をもたらしたのです。 また、それまでの砂糖は、精製されていない黒砂糖が使われていましたが、南蛮人によってもたらされた白砂糖は、黒砂糖に比べて雑味がなく他の味を邪魔しないので味に広がりができました。

これらの南蛮菓子は、長崎を中心にして日本国中に、特にこの時期を境にして、力を持ちだした町人階級に広がりました。それらのお菓子は、日本化されて今日に伝わっています。これらのお菓子やパンは、キリスト教布教の力にもなっていました。