日本のパンの歴史2 江戸時代〜大正時代

ちょっと間が空いてしまいましたが、再開します。

江戸時代

1639年の鎖国政策によりキリスト教は、弾圧されキリスト教のシンボル的なパンも作ることができなくなり食べられなくなっていきました。

パンが再び注目を集め利用されるようになったのは、1840年に始まったアヘン戦争がきっかけです。清に圧勝したイギリス軍が日本にも攻め込むのでは、と恐れた当時の幕府は、伊豆の韮山(にらやま)の代官であり、軍学者・江川太郎左衛門にイギリス撃退の作戦を命じました。彼は軍備補強を進めるなかで、とぎ汁や炊飯の煙が出る米よりそのまま食べられるパンの方が敵に見つかりにくく携帯食に便利だと考え、師に当たる高島秋帆の部下で長崎のオランダ屋敷で料理人をしていてパン作りを覚えた作太郎を韮山の江川太郎左衛門宅に呼び寄せ、パン焼き窯を作って1842年4月12日、記念すべき「兵糧パン」第1号が焼き上げられました。日本人による日本人のためのパンが本格的に作られたのは、これが初めてだといわれています。伊豆の郷土史研究家橋本さんによると現在の乾パンに近い製品だったようです。実際にレシピに基づき再現実験もされています。

やがて、鎖国令が解かれて開国した日本では、再びパンが広く作られるようになりました。ちなみにパン食普及協議会が、1982年毎月12日をパンの日としています。

明治時代

江戸が東京に変わり、西洋文化が急速に浸透していった明治時代。パン文化も本格的に根付き始めました。明治2年(1869)には、日本に現存する最古のベーカリー「木村屋総本店」が開業。そこで誕生したのがあんパンです。日本人の好みに合うよう、日本酒の酒種でパン生地を発酵させる技術を開発した。やがてあんパンは、ガス灯などと並んで「文明開化の七つ道具」といわれ、人々の人気を集めました。明治8年4月4日。東京向島の水戸藩下屋敷を行幸された明治天皇に初めて酒種桜あんぱんを献上した日を「あんぱんの日」として記念日に制定されています。
 現在の木村屋の酒種桜あんぱん

西洋文化を学び追いつけの時代でしたのでパンとミルクという西洋風の食事は栄養価が高いとされ、明治初期に誕生した軍隊でもパン食が採用されるなど、パン食は日本中にひろまっていきました。
小麦の需要の高まりを受け明治12年(1879)には、泰靖社(日本製粉の前身)が日本で最初の機械式製粉工場を稼動しました。今では、あまり聞かなくなったメリケン粉は、日本産を小麦粉、アメリカから輸入した小麦粉をメリケン粉と呼んでいた名残です。

大正時代

大正時代は、1912年-1926年のわずか14年の短い期間でしたが、パンの発展にも大きな変化が起きた時代でした。大正3(1914)に始まった第一次世界大戦では、イギリスと軍事同盟を結んでいた日本も連合国の一員として参加することになりました。その結果として、敵国であるドイツ人の捕虜が日本各地に収容されたことで、ドイツ式パンの製法や焼き釜が伝えられたそうです。また同盟国アメリカの影響で、砂糖やバターを使ったリッチなパンも普及。大戦勝利後の好景気で、機械化やイーストの製造に投資され徒弟制度のパン作りから工場による大規模生産も始まり、パン食は日本人の間でさらに広まりました。消費量としては、現在の1/8程度でしたが、角食パン、玄米パン、菓子パン、黒パンなど種類が増えたのもこの時代です。江戸時代と同じく軍隊の食料として角食ぱんが見直され、一般の人は米価格急騰による米騒動などもあり角食ぱんが、米の代替食として食べられるようになりました。戦後の好景気に沸く頃、工業化の流れにより敷島パン、フジパン、伊藤製パン、など続々と開業し木村屋総本店や中村屋などの昔からのパン屋さんも機械化を進めています。まだまだ欧米の文化が広く好まれていたわけではありませんが、洋服の女性が増えるなど日本にも少し自由な空気が流れた時代だったように思います。


敷島製パン創業時