日本のお菓子の歴史3 江戸時代 1603~1867年

江戸幕府(1603~1867)が開かれる以前の文化の中心地は京都であり、お菓子も茶道とともに上流階級の菓子として発展をしました。

ほぼ秀吉が天下を治めた天正17年(1589年)に練り羊羮が発明され、上生菓子や干菓子の打ち物(らくがんなど型に入れて固めた製品)が現れました。これらは「京菓子」と呼ばれました。
砂糖の消費も伸び、江戸初期の南蛮貿易では年間3000~4000トンも輸入されていました。薩摩が琉球に侵攻し(1609)奄美大島を奪うとサトウキビを栽培させ莫大な富を薩摩にもたらしました。

江戸時代初期には、京都は文化の中心であり江戸に伝わった物は「下りもの」として尊ばれていました。菓子類もその中の一つで、まだまだ京菓子の影響が大きかった時代です。
戦のない平和な時が長く続き、元禄6年(1693) 初版の教養本『男重宝記(なんちょうほうき)』には、約250種類もの和菓子と銘が記された本も発行されています。今の時代なら”男のたしなみをまとめたハウツー本”でその中に和菓子の作り方が載っています。この頃は、ビックリすることに和菓子の知識や作り方を学ぶ事はハイクラス男子と武士の必須教養でした。まあ、それだけ平和で江戸の武士もやる事が無かったとも言えますが、もてなされた和菓子で相手の教養や財力を推測したそうです。
 現代教養文庫で買えます。

今でも平和な時代にこそ経済が発展して庶民の生活が豊かになってくるように江戸時代も、約260年も大きな戦が無く平和な時代が続いたおかげで江戸庶民の暮らしも向上しお菓子消費の主役が、庶民に少しづつ移っていきました。
亨保・安永・天明年間(1720~1780)頃になると江戸の個性も出始め、桜餅、金つば、大福餅、おこし、せんべい等の生活に密着した菓子ができ武士や町人に人気となりました。
文化・文政(1804~1830)以後の江戸は庶民の街として、今川焼、五家宝、紅梅焼(日式ビスケット)、かりんとう等が、幕末には最中と切山椒(新粉菓子)が人気を集めました。

現在の多くの和菓子は、江戸時代に作られ、今日の製菓業の基礎が作られました。